マンドラゴラの咲く場所で 1


七株のマンドラゴラを買って、裏の畑に密かに植えた。

酷く暑い、夏の日だった。収穫したばかりの野菜を重い荷車に積んで、町へ売りに行った日。市場の片隅で見付けたその苗に、ヤコブは心を奪われたのだ。
値札には「マンドラゴラ」の乱雑な文字と、目の飛び出るような値段。
市場を行き交う人々のほとんどは、そんなものは目に入らないかのように素通りしていった。しかしヤコブは一人、そこから動くことができなくなっていた。
マンドラゴラという植物は、書物で読んで知っている。本が好きとはいえ田舎育ちのヤコブの知識では、その全貌までは定かではなかったが。父が生きていた頃、町へ野菜を売りに行く手伝いをした褒美に買ってもらえた博物学の本。それから、頼み込んで読ませてもらった村長の蔵書。あとは時折村を訪れる行商人から買った、胡散臭い伝説が色々と記された古い本。それが知っている世界の全てだったから、本物の――少なくともそう看板の掲げられている――マンドラゴラを目にして、胸の高鳴りを抑えられなかった。
万能の霊薬だとか、恋の媚薬になるとか、或いは人の姿に変じて未来を予知してくれるとか、どれが本当やら判らない幾つもの言い伝え。その全てを完全に信じている訳ではなかった。しかし、嘘だとも思っていなかった。思いたかった、のかも知れない。幼くして母を亡くし、つい先頃父をも失った十八歳のヤコブには、どんな病をも癒す霊薬はまさに夢のような品物だった。朧げにしか覚えてはいないが、病弱だったらしい母。男手一つで息子と畑を守り育ててきた立派な男で、頑丈さが自慢だったのに、まだ働き盛りを過ぎない内に突然倒れて幾月かで逝ってしまった父。家と畑を受け継いだ自分も、あまり身体は丈夫ではない。万能の薬というものが存在することを、信じたいと思うのはある意味当然だった。
照り付ける夏の日差しが背中を押した。気付けば店主の前に進み出て、緊張に震える手でその苗を指差していた。
無愛想な店主は、訊いたことには答えてくれた。この苗はとある村の処刑場に芽生えたものだということ。マンドラゴラは引き抜くと恐ろしい叫び声を上げ、それを聞いた者はたちまち死んでしまうが、まだ根の充分に育っていない苗なら抜いても平気だということ。土に植えた苗に同じ人間の血を与え続けると、その血の主に生き写しの姿に育つらしいということ。――尤も店主自身は試しておらず、伝聞だそうだが。
全ての話を聞いた後、ヤコブは最早迷うことすらなく、野菜を売って得た銅貨を全て差し出していた。それで買えた苗はたったの七株。いや、伝説のマンドラゴラの本物なのだとしたら、それだけ手に入ったというのは計り知れない幸運かも知れなかったが。

翌日、買ってきた苗を植えた時にも日差しは強かった。
他の畑の世話をしてから作業に取り掛かったため、時はもう夕刻だった。鮮やかな橙に染まった西の空から、刺すような光が降り注いでいた。全ての苗を植え終えたヤコブは、その畑の片隅にじっと立っていた。ナイフを右手に持って。
試してみたかった。マンドラゴラに血を与えると、人の姿に育つという話。
伝説では人の姿になったマンドラゴラは、丁重に扱い続ける限り不思議な力で主を手助けし続けるという。
助けてくれるのだろうか。たった独りで、これから生きてゆかねばならない状況を。
具体的な生活の不安があった訳でもなく、親から受け継いだ財産も乏しいというほどではなかった。小さいながら五面もの畑と、一組の親子が暮らすには充分な広さの家。それだけで独りで暮らすには不自由のない資産だ。ただヤコブには父のように全ての畑をしっかり世話する自信はなかったし、かといって何面かの畑を荒れるがままにしておくこともできなかった。
彼なりに、受け継いだものを守らねばならないという自負は持っていた。それを支えるには彼の腕はあまりに細く、手を差し伸べる者もいなかったというだけで。村の人々は決して冷たくはなく、寧ろ親切であったが、内気で人付き合いの苦手なヤコブには誰かに助けを求めることはできなかったのだ。
不安を拭ってくれる何かが欲しかった。
指の先にナイフを当てる。軽く力を入れると、血が珠になって浮き出た。その小さな滴を地面に落とす。畑の土に、それは跡形もなく吸い込まれていった。
たったこれだけの血で足りるのだろうか。足りないかも知れない。暫し地面を見つめ、ヤコブは考える。マンドラゴラは魔性の植物なのだ。一滴だけで満足するだろうか。指先の小さな傷口に視線を移す。こんな傷では、やはり足りない気がした。
――そのまま視線を滑らせた先には、白い手首に青く浮き出る血管。そこに、導かれるように、ナイフの刃を当てる。
ナイフを持つ右手に、ヤコブは力を込めた。切れ味のいいナイフは、さしたる抵抗もなく細い手首に食い込んだ。一瞬の間を置いて、ヤコブ自身も驚くほどの勢いで血が溢れ出す。
心臓が脈打つリズムに合わせて、次々に、新しい血が流れ出してはぼたぼたと地面に落ちた。マンドラゴラの葉にも赤い滴が落ちる。何故か、痛みの感覚は麻痺していた。昂揚のせいかも知れない。これだけ血が流れているというのに、危機感もなかった。普通ではない状況に、現実から切り離されてしまったような感覚に陥っていた。自らの流した血が土に吸い込まれてゆくのを、彼は魅せられたように眺めていた。――陶酔のためか、失血のためか、眩暈が起こる。
「――……ヤコブ?」
誰かが呼ぶ声がした、ような気がする。
「おい……何やって……!」
知っている声。これは、誰の声だったろう。はっきりとは判らなかった。
眩暈が強くなり、身体がぐらりと傾いた。倒れる時にマンドラゴラを傷付けてはいけないな、と思った。
「……ヤコブ!」
誰かの気配と声が、すぐ傍まで近付いてきた。抱き留められる感覚。誰だろう。視界が歪んで、見えない。けれど、何故か心地良かった。
抱き留める誰かの腕に体重を委ね、ヤコブはそのまま眠りに落ちた。

夢を見ていたような気がする。けれど、どんな夢を見ていたのかは思い出せなかった。
目を開けた時、見えたのは夕焼け空ではなく家の天井。身体を包んでいたのは土ではなくベッドと毛布。何がどうなったのか解らず、ヤコブは薄く目を開けたまま、微睡みの続きに身を任せていた。
床を踏む足音がした。少し急ぐ足音が、近付いてくる。くらくらする頭を巡らせて、その方向に目を遣った。部屋の扉は、開いたまま。やがて、その向こうから近付いてくる人影が目に入る。
「ヤコブ! 気が付いたのか!」
ヤコブが自らに視線を向けていることに、相手もすぐに気付いた。泣き笑いのような顔をして、勢い良くベッドの傍へ駆けてくる。
窓からの沈みそうな夕日に照らされている、柔らかそうな金髪。吊り目だけれど鋭さの欠片もない、良く言えば優しい顔立ち。お互いに知ってはいて、言葉を交わしたこともなくもない、けれどそれ以上に親しい訳でもなかった少し年上の青年――ゲルト。村一番の楽天家と呼ばれているらしい彼が、珍しくあまり楽天的ではなさそうな表情でヤコブの顔を覗き込む。
「……ゲルト?」
訳も解らず、ヤコブは彼の名を呼んで、その顔をじっと見つめた。何故、このゲルトがこんな、泣きそうな顔をしているのだろう。
「あんな馬鹿なことして。悩んでたなら誰にだっていいから、相談してみれば良かったじゃないか」
ゲルトの言葉は何故か責める口調で、ヤコブにはますます訳が解らない。馬鹿なこと、というのは何を指しているのか。マンドラゴラを買ったこと?――いや、ゲルトはそれを知らないはずだ。では、マンドラゴラに血を与えたこと?――そういえばあの時誰かが見ていて、駆け寄ってきて――。
「……あ。ゲルト……」
「ヤコブ。……人生捨てたものじゃないんだよ」
抱き留めてくれたことへの礼を言おうとしたヤコブのか細い声を遮って、真面目な顔でゲルトが言った。ヤコブの左手を取って、ゲルトは自分の手で包み込む。その時初めて、ヤコブは自らの手首にきつく巻かれた包帯に気付いた。
「辛いことがあるなら僕が聞くから。聞くだけしかできないかも知れないけど、それでもさ……」
握られた手に、微かに温かい滴が落ちた。
「ゲルト……泣かないで」
「――死のうなんて思わないでよ。独りで全部背負うことなんてないんだから」
「あの、違うんだ……そうじゃないんだよ、ゲルト……」
やっとのことでヤコブは理解した。ゲルトが何をどう勘違いしてしまったのかを。訂正しなくてはと思ったが、誤解とはいえゲルトに泣かれてしまって、動揺で上手く言葉が出ない。
「そうじゃないなら、どう――」
「死なないよ。僕は……あの……死のうとしてたんじゃ、ないんだ」
宥めるように、まだあまり力の入らない左手でゲルトの手をそっと握り返す。頬に涙を光らせたまま、ゲルトはきょとんとした顔になった。

「……人騒がせにも程ってものがあるよ」
ベッドの傍に座り込んだゲルトが、大きな溜息を吐く。しかしその表情は優しく、いつも通りに気の抜けた雰囲気だった。
ヤコブの話を、ゲルトは相槌を打ちながら静かに聞いてくれた。そして、このような状況に至った経緯も理解したようだった。こんな普通ではない話を素直に信じてもらえたことはヤコブにとって予想外だったが、嬉しいことだった。
自分は夢見がちで、興味を持つものが村の皆とは違うらしいということを、ヤコブは自覚している。理解されるとは思っていなかった。だから、マンドラゴラのことも誰にも話さなかったのだ。しかし、ゲルトは理解してくれた。完全な理解ではないかも知れないが、少なくとも拒絶しないでいてくれたのだ。
嬉しくて、ヤコブは話していた途中からずっと笑顔だ。こんな顔をできたのは久し振りだった。
「ごめん……でも、マンドラゴラ……素敵だと思うよね?」
「素敵かどうかは……まあ、でも、面白そうかな」
半分呆れ顔でゲルトが笑う。
「けど、あんなに血をあげるのは駄目だよ。少しだけにするんだ。解った?」
「うん……」
「少しだけなら、僕も付き合うからさ」
ゲルトの言葉に、今度はヤコブが目を丸くした。
付き合うというのは、つまり――一緒にマンドラゴラに血を与えてくれると、そういうことなのだろうか。
「ゲルト……いいの? ゲルトの血も分けてくれる……?」
「ちょっとだけだよ。ほんのちょっとずつ」
嬉しくて嬉しくて、言葉が出てこなかった。代わりに、繋いだままだった手をぎゅっと握った。マンドラゴラにゲルトの血を分けてもらえる、ということよりも、楽しみを理解してもらえたことが嬉しかった。ゲルトが一緒にマンドラゴラを育ててくれる。同じ世界に生きてくれる。――友達になってくれる。ヤコブにとって、それは初めての経験だった。
万能の霊薬への興味は尽きないし、魔性の植物を育てることへの好奇心もまだあるけれど、最早マンドラゴラはそれ以上である必要はなかった。
ゲルトがいるから。
不安から助けてくれる何かを期待し続けたりは、もうしなくてもいい。
――でも。
もしかしたら成り行きでこんな結果になったのも、マンドラゴラが願いを叶えてくれたということなのかも知れない。そんな風に、ふとヤコブは考えた。


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