マンドラゴラの咲く場所で 2


「……まだ寝てたかったのになあ」
相変わらず緊張感のない顔で、ゲルトが大欠伸をした。村の一大事だというのに。流石に少し呆れながらも、その気楽さに釣られてヤコブは思わず微笑んだ。
「仕方ないよ……だって」
「人狼なんていないって。おとぎ話だよ」
眠そうに目を擦りながら、普段と全く変わらない調子で言うゲルト。彼の楽天的なところが、ヤコブには心底羨ましい。明るさ、人当たりの良さ、物事を良い方向に考える力。ヤコブにないものをゲルトは沢山持っていた。夢見がちなところを除けば、二人は全く正反対だ。それに同じ夢を見るにしても、ゲルトはいい夢しか信じなかった。ヤコブは逆に、悪い夢ばかり気になってくよくよしてしまう性質だ。 けれど、だからこそヤコブにとってゲルトと話すことは重要だった。独りで考えていては気の滅入るようなことも、ゲルトが笑い飛ばしてくれれば一緒に笑えそうな気がしていたからだ。この、村に舞い込んだ不吉な報せでさえも。
「マンドラゴラだって、他のみんなから見たらおとぎ話だよ……」
「ま、そうだけどさ」
都合のいいことだけ信じていればいいんだ、と言わんばかりの、あっけらかんとした笑顔。彼は信じたものに裏切られることを、恐れはしないのだろうか。裏切られても傷付かないのだろうか。明るい可能性だけを信じていて、後で絶望が訪れた時に――彼のその笑顔は、どうなってしまうのか。弱々しい微笑を返しながら、ヤコブの心に浮かぶのは悪い可能性ばかり。そして、ヤコブのそんな心の内をいつも見抜いてしまうのも、ゲルトの不思議なところだった。
「心配性だなあ、ヤコブは」
からかうようにゲルトが言った。彼がこんな風に言うのは、いつもヤコブが悪い考えに嵌り込みそうになった時だった。もしかしたら見抜いている訳でなく、偶然が続いているだけなのかも知れないが。ゲルトは、実は深く考えているといった風には全く見えないのだ。
「だって……人狼だよ?」
村を訪れる行商人の数は、ここのところ目に見えて減っていた。この最果ての村にも今までは、月に何度かは物を売りに来る商人がいたものだ。それが、この一月ほどは途切れていた。昨日久し振りにやってきた、初めて見る顔の若い行商人から村長が話を聞いて、理由ははっきりしたらしい。
――人狼。
日のある間は人に成り済まし、夜になれば本性を現して人を喰らうという魔性の者。それが近頃、幾つもの村で現れ、人を襲ったらしい。お陰で警戒して余所者を入れない村や、酷い場合には余所者が近付いたと見るや人狼と疑って私刑に処するような村もあるという。それで行商人や旅人の多くは、この地方に近付くことを避けていたということらしい。他の村との人の行き来も少ない、この小さな村には未だ伝わっていない話であったのだが。その新顔の行商人も、危険を冒してでも商売敵がいない今の内に、というつもりで訪れて、村人が人狼騒ぎを知らないことに拍子抜けしたのだそうだ。――それが、村長が昨夜の内に村を回って伝えてくれた内容。そして、既に人狼が入り込んでいた場合に備えて今朝は村の皆で集まり、対策会議をしようということも。
「でもさ。この村の誰かが人狼なんて信じられるかい?」
会議の場となる村の広場へ向かって、ゆっくりと歩を進めながらゲルトは空を仰いだ。ヤコブは答えず、彼とは逆に下を向く。
人狼は、人々にとって馴染みの深い、同じ村の住人に化けると言い伝えられている。今回の騒ぎは知らずとも、人狼の伝説についてはヤコブも書物で読んで知っていた。人狼がどのようにして村人に化けるのかは知られていない。人間の村に忍び込むためにまず誰かを喰い殺し、その人物に成り代わってしばらく生活するのだという説もある。人間として生まれ育った者が、何かの弾みで人狼の血に目覚めてしまうのだという説もある。どちらにしても言えるのは、人狼に目を付けられた不運な村の人々にとって、隣人は最早信じられるものでなく“人狼かも知れない存在”になってしまうということ。そして、紛れ込んだ人狼を排除しないことには村は滅びるということ。――無論、人狼を仕留めようと村人同士で殺し合い、結局滅びた村の伝説というのも残っている。
村の皆の顔を、ヤコブは思い浮かべる。
文人肌で穏やかな村長。子供の頃から、彼にはよく蔵書を読ませてもらった。温厚だが思慮深く、村の誰もが彼を慕っている。
陽気な神父としっかり者のシスター。父の葬儀の時、未だ実感が湧かず呆然とするだけだったヤコブを支えてくれたのはこの二人だ。
よく自分の見た夢の話をしてくれるペーター。ヤコブに少し似たタイプの夢見がちな少年で、畑を覗きに来たり、伝説の話を聞きたがったりもする。
ペーターと仲良しの、お転婆な少女リーザ。村で一番の元気者だ。
気立ての良い羊飼いのカタリナ。畑に迷い込んできた羊を群れに帰しに行ったりで、何度か言葉を交わしたこともある。誰にでも分け隔てない、優しい娘だと思う。
仕事もせずに無頼漢を気取る、強面だけれど人の好いディーター。昼寝好きはゲルトと並ぶほどで、よく日当たりのいい場所を取り合っているらしい。話したことはほとんどないが、ゲルトから伝え聞く話によると悪人ではなさそうだった。
皆のことが、ヤコブは好きだった。生まれ育ったこの村が大好きだった。ゲルトと友達になるまでは日々に実感がなく、村の皆のこともどこか遠く感じていたが、あれ以来、ヤコブは少しずつ村に馴染みつつあった。ペーターと話をするようになったのもそれからだし、村長や神父が気遣って様子を見に来てくれた時も、どう応えていいのか判らず曖昧な返事しかできないということはなくなった。夢の世界との境界が定かでなかった日常に、ゲルトが形を与えてくれたのだと思う。最初はゲルトだけが大切だったのが、気付けば自分を取り巻く全て、この村の皆を好きになれていた。
――もし、この中の誰かが人狼だったら。考えたくはないけれど、考えねばならない可能性。ゲルトが言う通り、想像などできなかった。けれど馬鹿げていると一蹴するには、ヤコブにとって、それはあまりに大きな不安だったのだ。少ない可能性であっても、もし本当だったとしたら失うものが大きすぎたから。
「……また、悪いこと考えてる」
突然、ゲルトがひょいと下から、ヤコブの顔を覗き込んできた。不意を衝かれてヤコブは思わず足を止め、立ち竦む。そんな様子に、ゲルトは可笑しげに小さく笑った。
「ヤコブはさ。僕が人狼だったらなんて疑ったりはしないんだね」
「え……」
「そんなに人狼が心配だったら普通さ、目の前の奴から疑ったりするんじゃないかって思って」
自分のことを信じられるなら、皆のことだって信じられるだろう――そうゲルトは言いたいのだろうな、とヤコブは思う。いや、それとも、ゲルトは例によって何も深くは考えていないのだろうか。思い付きをそのまま口にしていて、聞いているヤコブが勝手に深読みしてしまっているだけなのかも知れない。
けれど、どちらにしても。
「……ゲルトが人狼だったら、食べられてもいいから」
ヤコブの答えは、決まっていた。村の皆のことも好きではあるけれど、やはりゲルトは、ゲルトだけは別格なのだ。彼のことまで信じられないとなったら、一緒に築いてきた日常も、村への思いも、全て崩れてしまう。そんなことになるのだったら、いっそ、騙されたまま喰い殺された方が幸せだろうと思う。
「食べないよ。狼なんかじゃないんだから」
屈託のない顔で、ゲルトは笑った。心に圧し掛かる不安を振り払ってくれるような、その笑顔がヤコブには何より嬉しかった。こんな時でも、ゲルトだけは変わらずいてくれる。彼だけは信じてもいい。――そのことが、どれだけ救いだったか。
「そう……だよね」
隣を歩くゲルトの手を捕まえて、ぎゅっと握った。ゲルトが一瞬、驚いた表情をする。が、目を丸くしてヤコブを見ると、その一瞬後には微笑んで手を握り返してくれる。
「大丈夫だよ、ヤコブ。人狼なんていないんだ」
「だと……いいな」
小さく頷いて、ヤコブは目を伏せた。恐ろしい、悲しい予感は拭えなかったけれど、今だけはそれを忘れていようと思って。
言い出せなかった。村長が人狼の話を運んできてからというもの、元気を失っている一株のマンドラゴラのこと。ゲルトの血を与えている一株だけが、少し萎れてきているのだ。マンドラゴラには未来を予知する力がある、と伝説では語られている。この神秘の草は何かを予見しているのではないか。そう思いながらも、そんな不吉なことを口にしてゲルトの笑顔を曇らせたくはなかった。彼なら一瞬後には笑い飛ばしてくれるだろう、とは思うけれど。
あとは黙ったまま、ヤコブはゲルトの手を握って歩き続けた。長くは続かないだろうからこそ、この穏やかな、優しい時間を素直に感じていたかった。


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