マンドラゴラの咲く場所で 3


凄惨な光景に、誰もが言葉を失っていた。
立ち込める濃密な血の匂い。まだ朝だというのに、照り付ける晩夏の日差し。眩暈がしそうだった。幻覚を見ているのではないか、そんな気がしていた。――信じたく、なかったのだ。
「……ゲルト」
沈黙を破ったのはディーターだった。土の上に横たわる“それ”に歩み寄り、羽織っていた上着を脱いで無造作に被せる。風を孕んではためいた上着がふわりと落ちて、“それ”を覆い隠した。
「お休み。寝床は俺が使ってやるよ」
ディーターらしい別れの言葉だ。どこか現実感がないまま、ヤコブはそう思った。そして、自分はどんな言葉を口にすべきか、彼はまだ解らずにいた。
被せられた上着に、未だ乾いていない血が染み出す。派手な紫の布地に、赤黒い染みがゆっくりと広がっていった。じわり、じわり。その色が広がるにつれて、現実が胸に浸透する。鼓動が速くなった。
「……安らかに眠ってくれ」
帽子を深く被って俯いたままのニコラスが呟いて、十字を切った。道中この村に立ち寄って、人狼騒ぎで足止めされていた旅人だ。
じわり、じわり。ディーターの上着に広がる赤黒い染みは、次第に大きくなってゆく。夜明けも近い頃まで、今は目の前から覆い隠されている“それ”は生きた人間だったのだろう。呑気に星でも見ながら寝転んだまま眠り込んでしまって、目を覚まして家路に着く途中だったのだろうか。その時間に村の通りを歩いていたのは、不運だったとしか言い様がなかった。
傷口から溢れる血を、吸い尽くしてしまったのだろうか。染みの広がる速度は次第に緩やかになり、そして止まった。
「あ……あ――」
震える喉の奥から、はっきりとした声にならない呻きが洩れた。呼吸をする度に、血の匂いが胸に吸い込まれる。息が詰まりそうだった。同じ血だ。畑のマンドラゴラのために分けてくれていたのと同じ――ゲルトの血。この匂いも、あの赤黒い染みも。
「……ゲルト。ゲルト」
ヤコブはよろよろと足を踏み出し、地面に膝を突く。上着を被せられた“それ”――物言わぬ亡骸となったゲルトの前に、跪くように。震える身体を支えるために土に手を突くと、湿った感触があった。指先に目を遣る。見えたのは土の色と、それに混じった暗い赤。
「こんなことになるなんて……やっぱり本人の意思は無視してでも眠気の覚める薬をあげてた方が良かったよ……」
熱に浮かされてでもいるかのように、思考が朦朧とする。自分が何を呟いているのかも、ほとんど認識していなかった。ただ、ゲルトがこの土の上に転がっていて、もう動かなくて、もう目覚めることはないのだと理解するのに精一杯だった。書物の記述を頼りに薬草から調合した薬を勧め、効果が定かではないからと嫌がられたこと。一緒に木陰に座って話していても、気付くとゲルトは一人で寝入ってしまっていたこと。何故かそんな記憶が、ぐるぐると頭の中を回り始める。楽しい思い出。続くはずだった幸せな日々。けれど全て、過去になってしまった。――ゲルトは、もういない。申し出を拒まれたり、話を聞かずに寝てしまわれたりでヤコブが拗ねると、困ったように笑いながら、それでもゲルトはいつも一生懸命に謝ってくれていた。けれど今は、どんなに怒ってみても、どんなに泣いても、ゲルトはあの困ったような笑顔を見せてはくれないのだ。二度と。
一緒に生きて、一緒にマンドラゴラを育てるはずだったのに。不思議な草が育つのを、ゲルトも楽しみにしてくれていたのに。そう考えて、ヤコブは思い出す。しなければいけないことが、ある。
「ああ……そうだ」
今ここで、ゲルトのためにできることを一つだけ、ヤコブは知っていた。そうしたらきっと、ゲルトが喜んでくれるであろうことを。
手に触れる土を、ヤコブは掬い取る。指先が土色と赤、二つの色に染まる。まだ乾かないゲルトの血が染み込んだ土。とても大切なものだ。ゲルトとの約束を果たすため、必要なもの。
より深く、ヤコブは土に手を差し入れた。湿って柔らかくなった土を掘り起こし、抱くように手に取る。まだ足りない。ゲルトの血は、もっと沢山流されている。再び土に爪を立て、掘り返す。
「お、おい……ヤコブ!」
神父が飛び出してきて、後ろからヤコブを引き起こす。何故そんな慌てた声を出すのか、何故止めるのか、ヤコブには解らなかった。ゲルトも楽しみにしていたマンドラゴラを育てるために、ゲルトの血が必要なだけなのに。この土に染み込んだ血をマンドラゴラに与えれば、ゲルトも喜んでくれるはずなのに。
「離してよ……神父」
神父の腕を振り払う拍子に、抱え込んでいた土が少し零れた。
「ゲルトの血が染み込んだ土……持って帰るんだ。畑の土に混ぜて……」
「ヤコブ! しっかりしろ!」
再び、神父の手がヤコブの腕を捕らえる。先程よりも強い力で掴まれて、すぐには振り解けない。反対の腕をディーターが掴んだ。手の中の土が、地面に散らばる。
「止めないでよ……ゲルトとの約束なんだ……」
必死で抵抗しても、二人掛かりで捕まえられていては無駄だった。無力感で、身体中の力が抜ける。神父とディーターに両側から腕を掴まれたまま、ヤコブは土の上にへたり込む。涙が溢れてきた。そして嗚咽が。
「ゲルト……どうして。どうしてこんな……」
その後は、声にならなかった。子供のように、ヤコブは泣き続けた。

日が落ちようとしていた。肌寒さを覚えて、ヤコブは目を覚ます。土の匂いと、微かな血の匂いが、畑に寝転んだヤコブを包んでいた。
顔を上げると、目の前のマンドラゴラは天に向かって真っ直ぐ伸びていた。はっとしてヤコブは跳ね起きる。夕陽に照らされた深い緑の葉は妖しいほどに艶を持ち、生命力に満ちているのが一目で窺えた。つい数時間前まで萎れていたのが、まるで嘘のように。
「ゲルト……」
そっと葉に触れて、ヤコブは呟いた。

神父と手伝いのディーターがゲルトを葬るために教会へ運んでいった後、ヤコブは村長の家に連れて行かれた。村長は上等な柔らかいソファにヤコブを座らせて、温かい茶を出してくれた。ショックを受けて精神が参っているのだろうから休むといい、と彼は気遣う口調で言った。しかしヤコブは首を横に振った。自分はゲルトの死でおかしくなっている訳ではないということ、しなければならないことがあるということを伝える必要があった。不審がる村長に、初めてマンドラゴラのことを話した。ゲルトの血を分けてもらっていたこと。マンドラゴラが育つのを、ゲルトも楽しみにしてくれていたということ。だから、ゲルトの最後の血をマンドラゴラに吸わせなければいけない、ということ。村長は半信半疑か、それ以下にしか信じていない様子だった。しかしヤコブの必死な様子に、遂に土を畑に混ぜることを許可してくれた。その作業が終わったらゆっくり休むというのと、自ら命を絶つことだけは絶対にしない、というのを条件に。村長が心配してくれているのは解ったし、その思い遣りは嬉しかった。それに、自殺などする気は最初からなかった。ゲルトと約束したのだから。ゲルトが一緒にマンドラゴラを育ててくれるから、もう必要以上に自分の血を流すことはしないと。――もし土に染み込んだゲルトの最後の血を与えられなかったら、自分がどうしていたかは判らなかったが。
それからヤコブはゲルトが死んだ場所へ行き、畑へ土を持ち帰った。そして、ゲルトの血を与えていたマンドラゴラの周囲の土に入念にそれを混ぜ込んだ。マンドラゴラの根を露出させないように、細心の注意を払って。空気に触れてしまえば、マンドラゴラは聞いた者を一瞬で死に至らしめるという恐ろしい叫びを上げるのだ。本当かどうかは知らないが、伝説ではそういうことになっている。村の皆がその声を聞いてしまってはいけない。
前の日も嫌な予感で碌に眠れず、ゲルトの死に打ちひしがれ、泣き疲れていたヤコブにはそれは酷く重い労働だった。運んできた土を畑に混ぜ終わったのと、ほぼ同時くらいだったのだろう――いつの間にか、ほとんど倒れるように眠ってしまっていたらしい。皆は人狼に警戒して出歩かなくなっていたのか、そのことには誰も気付かなかったようだ。

「ゲルト……聞こえる?」
血を吸った土を与えたせいか、元気を取り戻した――寧ろ前以上に生き生きとしているマンドラゴラに、ヤコブは囁き掛けた。返事があるはずもない。けれど、聞いてくれているような気がした。このマンドラゴラに、ゲルトの命が受け継がれたように思えた。
「これで……ゲルトの血は最後。今までので足りてたら、ゲルトそっくりに育つね……」
マンドラゴラとして、ゲルトは生まれ変わってくれるかも知れない。そう思えば、今は独りでも寂しくはなかった。血は足りなかったかも知れないが、足りたかも知れない。ゲルトにまた会える可能性があるというだけで、ヤコブは勇気付けられていた。それにこんなに、マンドラゴラは元気になっているのだ。
ふと、隣に植えてあるマンドラゴラが目に入る。畑の一番隅の、ヤコブ自身の血を与えているマンドラゴラだ。そういえば今日は、ゲルトのことで精一杯で血を与えていなかった。ヤコブは立ち上がり、歩み寄る。マンドラゴラは少し萎れているようだった。丁度、その隣のマンドラゴラが昨日そうであったように。
ポケットからナイフを取り出し、ヤコブは指先に軽く刃を突き立てた。血の滴が盛り上がり、土の上へと零れ落ちる。萎れたマンドラゴラに変化はない。胸騒ぎがした。普段とて、血を与えたその場で目に見えるほど元気になる訳ではないのだが。
指先に当てたナイフの刃に、更に力を込める。新しい血がぽたぽたと地面に落ちた。マンドラゴラは未だ、萎れたままだ。指先の傷が痛む。
ヤコブは畑の土に膝を突く。元気のないマンドラゴラを覗き込み、自ら傷付けた指で萎れた葉に触れる。その手触りから、隣に植えたマンドラゴラから感じたような生気は感じられなかった。胸騒ぎははっきりとした不安に形を変えていた。ゲルトの血を与えられていたマンドラゴラが昨日、急に元気を失ったのと同じだ。今はヤコブの血を受けたマンドラゴラが、忌まわしい未来を予告している。
救いが欲しくて、ヤコブは念入りにマンドラゴラを観察した。ゲルトがいない今、死ぬことが怖いとは思わなかった。しかし、一緒に育てると約束したマンドラゴラを遺して死んでしまってはゲルトに申し訳ないという思いがあった。
葉の一枚一枚に触れ、裏返し、執拗なまでの注意深さでヤコブは変化を探した。日は既に傾いている。晩夏とはいえ、この時間の風は涼しかった。湿った土の上に寝転んでいたヤコブの服は僅かに湿気を帯びて、少しずつ体温を奪う。指先の傷がちりちりと痛む。それでも、ヤコブは手を止めなかった。そして――彼は遂に、一枚の葉の陰に大きな変化の証を見出した。蕾。小さな葉に隠れてすぐには見付からなかったが、確かに蕾であろうものが枝分かれした茎の一つの先端に形作られていた。
はっとして、ヤコブは隣のマンドラゴラに視線を移す。同じ日に植え、その日からずっと血を与え続けてきたのだ。ゲルトの血を受けた一株にも、蕾は付いているかも知れない。その傍らに跪くと、葉を掻き分けて蕾を探し始める。結果は、すぐに出た。
「……ゲルト。花が、咲くんだね」
既に少し膨らみ始めている、小さな蕾。一つだけだったが、確かにそれは育ちつつあった。ゲルトの命が、花を咲かせようとしている。胸が一杯になった。ゲルトに再会できる日が、ぐっと近付いたような気がした。ただ、萎れたマンドラゴラの暗示する未来に不安はあったけれど――自分も、きっとマンドラゴラに生まれ変われるのだ。
ヤコブは立ち上がった。日没はもうすぐだった。もう村に人影はない。あと僅かで、人狼が魔性の力を発揮し始める時間がやって来る。村長との約束通り、家に帰らなければいけない。しかし、ヤコブにはその前に、行きたい場所があった。

風の冷たさが心地良かった。先程までは寒いくらいだったのに、今は湧き上がる想いが身体までもを熱くしている。
ゲルトと一緒によく来た、村外れの大木の下。そこにヤコブは、独りで座っていた。ゲルトと肩を寄せ合ってそうしたように、木に凭れ掛かって。
この夜が明ける時、自分はもう生きていないような気がしていた。それから村はどうなるだろう、とヤコブはぼんやりと考えた。皆は人狼を退治できるだろうか。マンドラゴラや他の畑はどうなるだろうか。土地は村のものになるのだろうが、不用意には抜けないマンドラゴラや、他の畑に植えてある癖の強い作物を村人達は扱えるだろうか。引き抜かれることなくマンドラゴラが育ったとしたら、どうなるのだろうか。普通の植物のように繁茂し、やがて村一杯に広がってしまうのだろうか。想像するとわくわくするような光景でもあったが、村のためにはあまり良いことではないだろうとも思う。
「ねえ……ゲルトはどう思う?」
ほとんど無意識に、ヤコブは横を向き、首を傾げた。ここに座って話をした時は、そんな風に横を向けばいつもゲルトが返事をしてくれていた。――けれど今は誰もいないし、返事も聞こえない。ゲルトはいない。
当たり前のように側にいてくれたゲルトは、もういないのだ。そのことをヤコブは改めて強く感じた。いつか生まれ変わって出会えるかも知れないけれど、今、ここにゲルトはいない。いなくなってしまった。
「……ゲルト」
誰もいない隣の空間に向かって、ヤコブは呟いた。
「寂しいよ……ゲルト」
もしかしたら、違う運命も待っていたのだろうか。違う選択をしていれば、今ここにゲルトと並んでいることもできたのだろうか。彼の不在を実感し、ヤコブは初めて悔恨を覚えた。悪い予感を覚えた時に、ゲルトに全て話せば良かった。集会の帰りに、ゲルトの手を捕まえて離さなければ良かった。相変わらず楽天家の彼が昼寝をする間にも、ずっと側にいれば良かった。どうしてあの時、諦めてしまったのだろう。全てが終わってしまうと、決まっていた訳ではなかったのに。
「ゲルト。……ごめんね、ゲルト」
昼の間に流し尽くしてしまったと思っていた涙が、また溢れ出した。悲しかった。ゲルトだってきっと、死にたくなどはなかっただろう。ここに並んでいたかったろう。けれどその望みは、永遠に絶たれてしまったのだ。ヤコブが彼を引き止めなかったばかりに。
月明かりが翳った。――いや、月が隠れたのではなかった。自らの上に落ちる影で、ヤコブは正面に立った誰かに気が付いた。
「……ゲルト?」
そんなはずはないとは知っていた。ゲルトが来てくれるはずはない。彼は死んでしまった。そう解っていても、ヤコブは無意識にその名を呼んでいた。涙に濡れた顔を挙げ、ゲルトではない誰かの姿を確かめる。
「あ――」
風が吹いた。目の前で、漆黒の獣毛が靡いて揺れる。爛々と光る目をして、鋭い爪を淡い月光に煌めかせながら、獣がヤコブを見下ろしていた。人間と同じように二本の足で立ち、瞳には理性と野性を共に宿した異形の獣――人狼。伝説に語られるそのままの姿で、それはヤコブの前に立っていた。
「そうか……」
涙を溜めた目のまま、ヤコブは微笑んだ。
「ゲルトの所に……連れてってくれるんだね」
恐ろしくはなかった。悔恨からも、寂しさからも、これで解放されるのだ。とても安らかな気分だった。
ヤコブは目を閉じた。瞼の裏に、微笑むゲルトの姿が見えた。

最後に聞いたのは、人狼の爪が空気を裂いて振り下ろされる音だった。


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