砂の中の安息


「……ヨアヒム、か。覚えているか?」
俯いて物思いに沈んでいたヨアヒムは、その声に顔を挙げ、今しがた宿に入ってきたその人物を見た。濃紺の法衣。それを纏っているのは見覚えのある――しかし、聖職者という身分を示すその衣装とは容易く結び付かない姿。
「ジムゾン……さん?」
まさか再会するとは、思っていなかった。しかもこんな時に。それは恐らく、二人とも同じだったろう。
人狼に脅かされ、これから村を挙げての対策会議に乗り出すという場所で、数年振りに顔を合わせた二人の男。彼らはかつて、同じ村の住人であり――人狼騒ぎを生き残っていた、数少ない人間だった。

「貴方が、聖職の道に進んでいたなんて」
その日の会議を終えて、ヨアヒムとジムゾンは議場となっている宿を出た。まだ幾人かの残っている宿で話すのを避け、どちらからともなく外へ歩き出したのだ。過去の、人狼によって壊滅寸前まで追い込まれた村のことを皆の前で話しては不安を煽る。二人ともそれを知っていた。
「意外だろうな。……お前は、墓掘りをしていると聞いたが」
「それしか、できなかったんです」
ヨアヒムは俯いたまま歩きながら、微かに自嘲めいた笑みを浮かべた。
「あれから……僕には行く所がなくて。受け入れてくれる村なんてなかった。あの頃は、どこも人狼に警戒していましたからね……余所者なんて、どこの村でも立ち入らせようとしなかった」
ジムゾンは頷く。彼らの住んでいた村が人狼騒ぎに見舞われ、ごく僅かな村人を残すのみの壊滅状態となったのは数年前。全滅しなかっただけでも幸いではあったのだろう。村人達は、全ての人狼を処刑して生き延びたのだ。しかし、処刑されたのは人狼だけではなかった。無実の人間をも手に掛けたことに、生き残った者達も気付いていた。そしてまた、人狼の餌食となり命を落とした者も少なくはなかった。生き残った者は村を甦らせるにはあまりに少なく、あまりに苦い思いに囚われすぎていた。彼らは村を捨て、惨劇の記憶から逃げるように散り散りに去っていった。それから、互いの行方も知らないままでいたのだ。
「……そのうち、この村に流れ着いたんです。この村はちょうど、疫病にやられて……沢山の人が死んだところだった。埋葬も追い着いてないほどで。だから、僕は……墓掘り人足としてでいいから、村に置いてほしいと頼み込んで」
「そうか……」
「卑怯ですよね。村の苦境に付け込んで住まわせてもらおうなんて」
ヨアヒムは溜息を吐いた。かつての人狼騒動でのことが、未だに彼を縛っているのであろうことがジムゾンには見て取れた。無実の者を処刑した罪を感じるあまり、彼は自らを許せずにいるのだろう。そういう真面目すぎる所は変わっていない。
「墓掘りの役目は果たしているのだろう? ならば間違いではないだろう。死者に最後の安息を与える大役だ」
ヨアヒムは俯いたままだった。

「疲れているようだな、ヨアヒム」
皆が帰っていった後もソファに身を投げ出したまま休んでいたヨアヒムに、ジムゾンが声を掛ける。彼がまだ教会に戻っていなかったことに、半ば朦朧としていたヨアヒムは初めて気付いた。
「……大丈夫です」
どう見ても大丈夫には見えないだろう、と内心で苦笑する。自分でも、その程度は解った。
人狼騒動が持ち上がり、会議が始まってから三日目。既に二人の人間が人狼に殺され、疑わしい者の処刑も始まった。ただでさえ墓掘りの仕事が忙しくなる状況だし、それに、日毎に村には亡霊は増えてゆくのだ。
「お前が、霊能者だったのか。……あれから、か?」
ジムゾンの問いにヨアヒムは頷いた。
彼は亡霊の声を聞き、姿を見る力の持ち主――霊能者だった。生まれつきの力ではない。数年前の、あの騒動が終わってからだ。それまでの彼は、何の力も持たないただの村人だった。しかし全てが終わった時から、彼の目には処刑した者達の亡霊が映るようになっていた。責める眼差し、怨嗟の声。それは故郷を旅立ってからも、彼を苛み続けていた。そして辿り着いたこの村で、彼が出会ったのは葬られもしていない死者達の嘆き悲しむ霊だった。墓掘りになると申し出たのは、彼らの声を聞く者としての義務感ゆえでもあったかも知れない。
「それにしても。……ジムゾンさんが人間で、良かったです」
少しの沈黙の後、今度はヨアヒムが口を開いた。
「やれやれ。私のことまで疑っていたのか」
「……すみません。どんなに信じたい人でも、疑わなくてはなりませんから……人狼と、戦う時は」」
ジムゾンにも、それは解っているはずだった。抗議してみせたのも、その上での軽口のようなものだろう。目の前にいるのは昔から知っているジムゾンなのだ。いつの間にか彼に成り代わった人狼などではない。神の道に進んでいたことこそ意外だったが、彼のそういう性格は変わっていないようだった。ぶっきらぼうで皮肉屋で、冗談が下手で、意地の悪いジムゾン。元々、親しい間柄ではなかった。同じ村の住人として見知っていたという程度だ。しかしそれでも、変わらずに信じていい存在がいるということにヨアヒムは安堵していた。
自らが占い師だと名乗る旅商人と修道女は、どちらもジムゾンを人間だと言った。どちらの占い師が本物かは判らない。しかし、どちらにしてもジムゾンは人間だと証明されたのだ。
「時々……何もかもが嘘なんじゃないかって、思ってしまいそうになるんです。あの時みたいに。何かを信じて、もしそれが嘘だったら……その上に積み上げた全てが、崩れてしまうから」
ジムゾンは黙っていた。彼も自分と同じように、過去に植え付けられた不信に苦しんでいるのだろうかとヨアヒムは思った。信仰の道を選んだのは、或いは、それを拭うためなのかも知れない。
「砂の城みたいに……土台が崩れたら、あとは全部、跡形もなく壊れてしまうんだ。……それが怖くてならないんです」
「――この村は、砂か?」
俯きかけたヨアヒムは、ジムゾンの言葉に顔を挙げた。彼が何を言おうとしているのか測ろうとして、しかしその細い目からは何も読み取れず、ヨアヒムは続きを待つ。
「崩れないものも残るはずだ……そうでなければ、お前はこの村で、砂に墓穴を掘っていることになるぞ。掘った傍から崩れて、埋まっていってしまう」
「……僕は」
「お前はこの村の死者達に安息を与えた。そしてこの村はお前に安息を与えた。そのことは崩れんだろう」
ヨアヒムは小さく頷いた。救われた思いだった。彼は微笑もうとしたが、酷く弱々しい笑顔にしかならなかった。
「ジムゾンさん。ありがとうございます……それに今は、貴方のことも信じられますしね」
ジムゾンは答えなかった。彼は窓に目を遣り、どこか遠くを見ていた。

「……ジムゾンさん?」
月明かりの下、土を掘り続けていたヨアヒムがふと手を止めて振り返る。掘りかけの墓穴の傍らまで、ジムゾンは近付いた。
「あまり無理はするな。今朝、倒れたそうじゃないか」
その時間、ジムゾンは朝の礼拝のため教会にいた。皆より少し遅れて宿に来た時には、ヨアヒムは辛そうにソファに横たわっていた。それからしばらくして会議が始まったため詳しいことは聞けなかったが、他の者の話によると、ヨアヒムは突然倒れてソファに寝かされていたらしい。ここ何日かの間、彼は気分が悪そうにしていたことも幾度かある。それに心労も酷いものだったろう。――何しろ処刑が始まってから三日、今まで一晩に一人ずつ処刑した者は全て人間だったのだ。恐らくヨアヒムには、彼らの無念の声も聞こえているのだろう。
「……でも。モーリッツさんの墓を、掘らないと」
人狼に襲われた者も、既に四人を数えていた。昨夜殺されたのは、村の長老だというモーリッツ老人。朝になって見付かった遺体は、略式の葬儀を済ませた後、まだ教会に安置されている。本当ならもう葬られているはずだったが、倒れたばかりのヨアヒムを働かせる訳にもゆかず、墓に入れるのは延期されていたのだ。日も暮れる頃になってやっと起き上がれるようになったヨアヒムは、皆の制止も聞かず、そのモーリッツの墓を掘りに来ていた。
「それに、もう一人分……」
今夜も、また一人処刑される。人狼だという確証もない者が。また人間だったら、どうすればいいのだろう――ヨアヒムの表情には、そんな迷いの色がありありと見て取れた。
再び土を掘り始めたヨアヒムが、また手を止めた。スコップで身体を支えるようにして、激しく咳き込む。
「おい。大丈夫か」
すぐ傍まで歩み寄り、ジムゾンは驚きに目を見開いた。口を押さえたヨアヒムの指の間から、血が滴り落ちている。咳が治まると、ヨアヒムは泣きそうな顔をして、まだ浅い墓穴の中からジムゾンを見上げた。
「ヨアヒム、お前……」
「……少し休みます」
スコップを穴の中に立て掛け、ヨアヒムは腰ほどの深さまでの墓穴の中から這い上がる。ジムゾンもそれに手を貸した。
「……きっと、この村に来たばかりの時に罹ったんでしょうね。あまり詳しくはありませんけど……罹っても、体力のある時には発病しない病だそうですから」
墓穴の縁に腰掛けて、ヨアヒムが話し出す。その声にはどこか、諦めたような響きがあった。
「今まで大丈夫だったのは、きっと神様の思し召しですよ。この時まで生きて……村を救うために。僕のこの力も、僕の存在も、きっとこの村を救うためにあるんです」
「――神などいるのだろうかな、ヨアヒム」
傍らに立つジムゾンを、ヨアヒムは見上げた。戸惑う表情をしているヨアヒムと視線の高さを合わせるように、ジムゾンは墓場の土に跪く。
「神がいるのなら……どうしてあの時、救ってくれなかった?」
「……解りません」
無実の者が幾人も、神に見捨てられたのだ。それに生き残った者とて、救われたとは言えなかった。ヨアヒムは罪の意識と亡霊にずっと苦しめられ続けてきたのだし、ジムゾンは――
「……ヨアヒム」
俯いて目を伏せたヨアヒムを、ジムゾンは呼んだ。目を開けて、ヨアヒムが視線を向けてくる。
――それと同時に、ジムゾンはヨアヒムの胸に爪を突き立てた。
「え……」
ヨアヒムは呆然と、自らの胸に刺さった爪を眺める。人間のものではありえない、鋭い、獣の爪。
「もう、お前は休んでいい。砂だったのだからな、全て」
「嘘、だ……だって、アルビンさんもシスターも、ジムゾンさんは……人間だって……」
途切れ途切れの声で呟きながら、ヨアヒムは次第に起こったことを理解し始めたようだった。驚愕の色だった彼の瞳が、絶望の色に塗り替えられてゆく。
「――そういうことだ、ヨアヒム。本物の占い師など生きてはいない。救ってくれる神など、どこにもいない」
ヨアヒムには既に、応える力も残されていないようだった。その瞳から光が失われる。ジムゾンは更に深く爪を突き立て、事切れたヨアヒムの胸から心臓を抉り出す。抗い難い野性に衝き動かされるジムゾンにとって、目の前にあるのは同郷の友の亡骸であると同時に――食物だった。
衝動のままに鼓動を止めたばかりの心臓を貪り喰い、血塗れの手を見つめてひとしきり荒い呼吸を繰り返し、やがてそれが治まるとジムゾンは静かな声でヨアヒムに語り掛けた。彼にはもう聞こえていないことは、解っていたけれど――懺悔のように。
「誰も気付いていなかったようだが……私はあの時、人狼に噛まれていたのだよ」


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